旧richardkoshimizu's blog

中高一貫進学校は悪夢の青春時代でした…

<<   作成日時 : 2013/09/29 11:26   >>

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2013/9/29 08:53

中高一貫進学校は悪夢の青春時代でした… 毎日の英単語詰め込みテスト、いい大学に入ること以外何もしない。男ばっかり… 基本的な男女の人間関係やスポーツで協調性を学ぶことも何もない。心は病んでゆくだけ。ランクが下でも男女共学の公立にいっとけば良かった… 今から考えると大学なんてどうでも良かった。 異性との付き合い方や心底夢を持った友達との付き合いも出来たかも知れない…

ガネーシャ


>ランクが下でも男女共学の公立にいっとけば良かった…

男女共学の公立学校で、同級生を好きになって毎日ときめく思いで登校し、彼女のちょっとしたしぐさや言動に一喜一憂し…..告白してあっさり振られてうなだれて帰る家路ににわか雨が叩き付けてくる。

ちょっとかわいくておっぱいの大きかった、なんちゃって制服の似合うN子となんども手を繋いで下校したこと。それだけのことだったけど。1年先輩のちょっとばかりアプレゲールwな女子に付き合ってくれと言われて、なんだか怖くて逃げちゃったこと。そんなほろ苦い思い出が今も蘇る。

林間旅行で好きな子に一大決心してボートに一緒に乗ろうと誘ってOKされ、全同級生から注目されたこと。そしたら、みんな真似をして好きな子を誘い出した。あれは、中学2年の時だったな。百合子さん元気かな?

食後に學校近くの公園でみんなと一服していたら、パトカーに見つかって親が学校に呼び出されたり。視聴覚教室の準備室かなんかが、秘密の喫煙室になっていて20人くらいが休み時間にタバコ吸ってたら、天窓から煙がもうもう出てるのを見つかって….。

「ねえ、みんな明日一斉に銀玉鉄砲を学校に持ってこようよ。」と提案して次の日持ってきたのはRKだけ。ただし、その次の日から、クラスの男子ほぼ全員が銀玉鉄砲戦争に参戦。授業中、先生のいる黒板の上の「静粛」の張り紙にパシッパシッと銀玉のあたる音がする。笑いをこらえるのに一苦労。学年6組ある全クラスに銀玉打ちまくり症候群が伝染。女子は男子の幼さに嘲笑。そのうち、金持ちの息子がウインチェスター型銀玉ライフル銃を持ってきて、速射連射を実演。学校中、銀玉だらけになってついに先生に見つかって、禁止。

化学の授業で使うスポイトの頭の赤いゴムに水を極限まで注ぎ込んで封をして、校舎の3階の窓から下校する同級生カップルに向けて放り投げる。パシャと近くの地面に炸裂して同級生は青い顔。味をしめて、誰かが調達してきたコンドームで同じことをやる。こっちの方が貯水量が多いので効果絶大。

都立はゆるくて制服もないので、白いベルボトムジーンズに花柄のシャツなんて格好で登校していたけど、なんだか、私服に飽きてきて、ある日から一応着てもいい事になっている詰襟の制服をRKだけ着て登校。卒業写真もRKだけ制服で、担任の隣。

修学旅行委員長になって、ありきたりの京都奈良なんて面白くないから、ヘンなところ行こうと思い、冗談と思い付きで高松の沖合の鬼ヶ島に行こうと言い出したら、みんな冗談好きで賛成しちゃって本当に行った。委員長の立場上、旅行中、みんなと一緒に酒もたばこもやれずじまい。ちぇ。この間数十年ぶりに鬼ヶ島(女木島)に行った。

屋上の手すりを越えるとちょっと下に張り出したひさしみたいのがあって、屋上から飛び降りるふりをしてそのひさしに着地する遊びがはやった。屋上から見ていると飛び降りたようにしか見えないのでうけた。一歩間違えれば地上に激突。幸いにして卒業まで誰も死ななかった。

親父が商船学校時代着ていた「マント」を羽織り、ボロボロになった親父の旧制中学時代の制帽をかぶった同級生が高下駄を履いて登校して、下駄の音がうるさいと先生からクレームが入ったら、次の日そいつは、下駄の底にゴム板を張り付けて登校してきた。もう面白くて面白くて。そいつが、今じゃ、大きな歯科医院の院長。

北区の浮間からきている和美ちゃんという何とも色っぽい同級生がいて、彼女の家がプロパン屋かパン屋か2説あって、みんなで確かめようと同級生が赤羽線(当時)に乗って現地に赴いた。パン屋であることが確認され、これは「プロのパン屋」であるということで一件落着。

バドミントン部に入って、後輩にきれいなのが二人ほど入ってきてスコートから伸びる素足がまぶしかった。体育館の隣のスペースでで床に足を拡げて柔軟体操をやっているダンス部のM美の姿が気になって何度スマッシュをミスったことか。

バドミントンの都大会で結構いいところまで行って、W大学の文学部二部(当時)から推薦入学の手紙が来て、二部じゃいやだし、大学入ってもバドミントンなんてやりたくないとか思って、それでも全然受験勉強しなかった高3の時。

長髪の女子がいて、毎日、ポニーテールとか、おさげとか、ワンレンとか髪型を変えてくるので、RKが髪型を漫画にして「しめ縄・ロープ2本・ナイアガラ」とか命名して、授業中にメモ用紙を回してアンケートをとったら、ナイアガラが一位になったけれど、彼女以外の同級生全員からアンケート回答があったことに驚き。今、考えると、これっていじめにとれないこともない。遅まきながら、すいません。

高校の時きれいだなと遠くから見ていた充子さんと大学に入って、登校途中、池袋駅でばったり会って、それから何度かデートしたりして、彼女が推薦で入ったGS院大学の教室まで連れていかれて…鱚しようとして拒否られておしまい。

RKの出たのは都立高校で、もともと女子高。在学当時、まだ、女子の方が多かった。1899年創立。19世紀だ、19世紀。卒業生には、女性運動家の山川菊栄、山高しげり、黒崎悦子。日本初の女性弁護士の田中正子、俳優、緒方拳、尊敬するマッド・アマノ先生、音楽の山下達郎(竹内まりあの旦那として有名w)、元ライブドアの乙部綾子、作家の伊藤比呂美はRK同級生。横山めぐみ(女優)、そして、リチャード・コシミズ。

同級生にお父さんが台湾出身の丁(てい)君という中華料理店の息子がいて、勿論だが「Take took taken」と呼ばれていた。当たり前だけどね。

受験になって、KOに補欠の2番で合格したのがいて卒業までずっと「KOに補欠の2番で合格したO君」と丁寧にフルネームで呼ばれていた。彼がウインチェスター君だ。オバQの小池さんに似ていたので綽名は「小池さん」。W大に同級生と下見に行ったとき、「あれが、おおすみ講堂だ!」と叫んだOE君は、東大に二度落っこち、W大政経に二度合格して二度目に行ったけど、長い間「おおすみくん」と呼ばれていた。ヤツが「Utterly」の反対語は何かと設問したので、みんな、苦しんで回答しようとしたが、正解は「ハッズレー」だった。私もその頃、「Oh my know can sun day bay so」を翻訳せよとの設問を出したが、確かOE君が正解したと思う。ヤツは優秀だ。

お父さんがY新聞の記者で交通事故で死んでしまって、母子家庭だから都立に来て、たいして勉強していないのに成績が良くて、T大の建築学科に行ったIE君。バドミントン部のマネージャーのN江ちゃんと結婚しちゃったな。ちぇ。毎年の下諏訪合宿楽しかったね。一緒に女湯覗いたら、●藤先輩の下着姿がちらりと見えた瞬間、キャー。IE君はアカでもないのにメーデー歌の替え歌を唄っていた。「聞け万国の労働者 椎の木林のすぐそばに....」だった。確かにメーデー歌と「お山の杉の子」はそっくりだ。ヤツは秋田音頭の名手でもあった。「秋田名物 はつもり はたはた 男鹿で男鹿ぶりこ 能代春慶 ひやま納豆....」ってヤツだ。理由はわからない。大学でてゼネコン入って、10年くらい、山奥でダムを作ってた。飯場で労務者の父ちゃんたちと酒かっ食らってたそうだ。

親しかったS谷君は、理数が得意でよく数学なんか教えてくれた。J大の理工に行ったのになぜか毎日のように青学にいた。なぜか?居たんだからしょうがない。桑田君なんかと音楽やってた。生まれて初めてピアノに座ったのに即興でジャズが弾けた天才で、桑田君の書いた本にも「天才」扱いで実名が出てくる。でも、某大企業に入ってプログラマーになっちゃった。勿体ない気もする。 

私RKは、当初は、W大の政経に一浪して入ろうと思っていたので、「早政経一浪(はやまさけいいちろう)」というペンネームで少し下らない文章なんか書いていた。そろそろ、このペンネームで官能小説でも書こうかな。

と、まあここに書いたのはあたり触りのないことで、本当はもっともっと書けないことがある。

都立は自由だからいろんな人材を輩出する。

RKの時代は、あまり裕福でない家のできる子は、公立に行ってそこそこいい大学に行けた。T大に行ったやつもクラスに2-3人はいた。だが、今は、私立の中高一貫を出た「受験のプロ」との競争だから大きなハンデがある。今のRKの出身校からのT大進学者は毎年ほぼゼロ。別にそれでも構わないけれど、社会に不平等があるのは、問題。僻地の小さな高校でも、できる子は頑張っていい学校へ行けるのが正常な社会。親の年収1000万円以上、大都市の中高一貫出身が出世の条件だなんて、歪すぎる。

RKは、受験勉強はした覚えがないけれど、現役で入れてくれる大学があって、どうせ浪人しても興味の湧かない勉強はしないと、その当時は思ったので入ってしまった。おかげで、4年間、酒は飲むは、女の尻は追っかけるは、外国にバックパック背負って放浪するはで、最高に楽しい青春ではありました。周囲は4大と短大の美女で満員御礼。大学の試験は、経済学という机上の空論の学問だったので全く興味も覚えず、全部同じ内容の答案を書いたら全部の科目で及第してしまって、一年留年する積りが、卒業してしまったのは誤算。

RKは受験勉強を真面目にやる機会がなかったけれど、これだけはかなり後悔している。浪人すればよかった。志望大学に受かるかどうかじゃなくて、一生に一度くらい受験勉強で頭を酷使しておけば、もう少しは脳が開発されていたんじゃないかと、いまさら思う。その分、社会に出てから脳の開発に時間が掛かって遅咲きになってしまったかもしれない。

でも、大学の4年間は、人生で一度しかない「自由奔放」にすごすことのできた貴重な時間。地方から来た金持ちや貧乏人や普通の家庭の出身者と交流し友情を分かち合い、涙し、けんかをして、視野が広がった。4年間、遊んだことがのちのち「人生の余裕」を与えてくれている。

一流大学ではないし、成績もよくなかったから、適当に就職試験を受けて、渋谷で飲んだくれて家に帰ったら採用通知が来ていて、最初に受けた小さな商社にそのまま入社してしまって、4か月たったら、クアラルンプール駐在を命じられて、気が付いたら5年たっていた。

遮二無二毎日突っ走っていたら、半年もしないうちに英語は普通に話せるようになったし、駐在員事務所を一人で切り盛りしなくちゃいけないから、一通りどんな業務でも一人でできるようになっていた。大学時代の彼女には、「お嫁に行きます」の手紙一通でふられたけど。まあ、いいか。

大学の学問はあまり役に立たなかったけれど、社会に出てからたっぷり勉強して、苦労して、挫折して、世の中の構造を知り、今の自分がある。「いい学校、いい会社、高収入」が人生の目標だなんて悲しすぎる。人生は一回しかないのに、なんという無駄だろう。

こんな甘辛い思い出を作れただけでも、公立校に行ってよかったです。危うく男子校に行きそうになったけれど、セーフ。おかげで世にいう出世コースには乗らずに済んだ。社会人になってからも大冒険を楽しみながら生き抜いてきた。神の配剤に感謝。

6年間も男子校で、学年無視した「先行授業」で受験勉強の時間を作り出し、非受験科目をすっ飛ばして優秀な受験ロボットとなって….そんな思いをしないですんだことに感謝。

私RKは、中高一貫教育に一貫して反対です。